親父の葬儀

親父の葬儀 父親の葬儀

人生初めて打ちのめされた

私が高一のとき、親父は倒れ入院、緊急手術で一命をかろうじて拾いました。確か手術は7時間ほどもかかり、大手術であったことを覚えています。
長い入院生活を経て家に帰って来た親父。元気だったころに比べると一回り小さくなった体。家に帰って来てからは、親父の部屋から出てくることは殆どありませんでした。

食事も親父の部屋で済ませていました。私たちが集まる居間に来ることはありませんでした。親父の世話は全部おふくろがしていました。水を飲むこともテレビのチャンネルを替えることもおふくろの仕事でした。

高一のガキだった私にとって、親父の手術は精神的に堪えました。毎日、家の中は重い空気が漂っていました。家族の誰かが笑うのもためらっていました。ただ一日も早い回復を祈るばかりでした。

時は流れ私が大学四回生のときでした。
大阪の大学に行くようになってから、時折おふくろから手紙が届きました。手紙の内容は殆ど親父の様子が書かれていました。
私が心配するようなことは書いて来ませんでした。私も大阪で親父の回復だけを願っていたと思います。家族の誰かの健康がすぐれないとき、私のテンションは上がりませんでした。

私は勝手に少し親父が回復に向かっているものと思っていました。
今のように携帯電話がある時代ではなく、送られてくる手紙から想像するしかありませんでした。

あと半年ほどで大学生活も終わろうとしていた時、再び親父が入院することになりました。電話が下宿に入り、「心配しなくてもいいから浜松に戻らなくていい。」とのことでした。

しかしそれから二か月ほど経って、親父の具合が悪化したという知らせを受け、居ても立ってもいられず浜松に戻りました。ここからが親父の体調と私たち家族の精神的闘いがはじまりました。

親父の病名は「肝硬変」でした。
当時の医学では肝硬変はほぼ回復ができない病気でした。一回目に受けた手術の後の手術あとの部分が飛び出てしまい、段ボール紙で押さえて包帯でぐるぐる巻きにしていました。再手術をして飛び出した部分を切除したのですが、根本的に肝臓の機能が低下していると知らされました。解毒もできない状態が続きました。

顔いろはどんどんどす黒くなり、黄だんが出てきていました。素人の私が見ても状況は最悪でした。

日に日に患部の痛みがひどくなってきたようで、親父の悲痛な顔が続きました。時折、痛みを堪えられないのか、「殺せー!頼むから殺してくれ!」と叫ぶ声。その声は私にとって耐えられるものではありませんでした。何もしてあげられない辛さ、押しつぶされそうでした。

3か月間、毎日病院に行きました。おふくろの体力を考え、ほぼ私が親父の横に詰めていました。私が大阪に戻り大学へ行かなければならない時、親父に話しかけました。「明日、大阪に戻るけどすぐに戻ってくるから」と耳元で囁くと親父は、片手で私の顔を触り始めました。

「トモ、頑張って人の上に立つような男になれよ!」と途切れるような声を絞り出しました。「ああ、ヒゲがあるなぁ。トモだ。」

その頃の私はヒゲをはやしていました。すでに親父の目は見えてなく、かろうじてヒゲを触って、私だと判断したんだと思います。「もう大阪へ戻りなさい。今日で最後だからな」とポツリ。

私は翌朝大阪に戻りました。新大阪駅から天王寺へ向かい、阿倍野駅からいつもの電車に乗って”貴志駅”を目指しました。
やっとの思いで下宿に着き部屋にいると、下宿の2階のトイレの上に設置されていたスピーカーから、「波多野さん、電話ですよー」と下宿のオバチャンの声が聞こえて来ました。

嫌な予感を感じ、すぐに階段を下りて電話のある食堂へ走りました。
受話器を耳に当て、「もしもし」と言うとおふくろが泣きながら「お父さんが死んじゃった」と震えていました。

昨日親父に「明日大阪に戻るから」と言ったばかりだったのに。
親父の言った通りになりました。3か月間ずっと病院に詰めていたのに、死に目に会えなかったのが自分だけ。それが残念で悔しく辛かったんです。

一睡もできず、顔を洗いバスに乗って貴志駅に向かいましたが、それ以降どうやって新大阪駅まで行ったのか?浜松に着いてどうやって実家まで戻ったのか?殆ど記憶にありません。
ただ、家の玄関先に葬儀用の大きな白黒のリボンの花輪が立てかけられていた光景だけはかすかに覚えています。

親父の葬儀準備が整っていた

玄関を上がり親父が寝起きしていた床の間に入ると、そこには親父がきれいな布団に横になっていました。頭には白い三角の布が巻かれていましたが、いまにも起き上がるのではないかとキレイな状態でした。顔色はやや黄色味がかっていました。
頬はこけ、目がくぼんでいました。おでこに手をやると冷たくなっていて、「親父は死んだんだ!?」と思い知らされました。

おそらく葬儀用の祭壇だと思われるものが親父の傍らにあり、明日の葬儀のために用意さられたものだと想像できました。
今日がお通夜で明日が葬儀。この二日間は大勢の人が親父の最後を見届けにくるんだろうなと、なぜか気持ちだけは張っていました。

家族、隣保の人たちが忙しそうに出たり入ったり。
人が亡くなると隣保の人たちが助け合うんだと初めて目にしました。俺は何をすればいいんだろう?葬儀屋さんが忙しそうに、何かを運び入れていました。
葬儀ってこんな感じで用意されるのか、、、この段階で”悲しい”だなんてとても言えない状況でした。それが寂しさを忘れられていました。

その日の夜お通夜が一段落したところで、兄が私と姉を二階に呼びました。「明日の葬儀が終わったらおふくろは気が抜けてしまうから、みんなでおふろこを助けなけれなだめだぞ!と長男としての威厳を見せました。葬儀の当日は天気もよく無事に終えることができました。

葬儀が終わり親父は床の間に眠っていました。その夜は親父と並んで
座布団を並べて寝ました。

寂しさが襲ってきたのは、初七日が終わったころ。
私にとって初めての肉親の死。しかも父親を失った悲しみは、ぽっかりと体に穴が開いたような虚無感でした。

無事に初七日を終え、私は大阪に戻るときが来ました。僅か七日間ではとても立ち直るには短すぎました。肉親と別れることがこんなにも辛いものだったとは。

 

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管理人
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私は有限会社アイベックスという映像制作会社を設立。そしてバリ島に進出してウェディングのプロディースの会社、PT.BALI IBEXを設立。大手旅行代理店と提携して自社チャペルにてウェディングをプロデュースしていました。しかし、夢半ばで病に倒れ、すべてを失ってしまいました。おまけにその病により下半身不随に。現在もリハビリを続け、復活を目標に生きています。私と同じ病に倒れ、現在も頑張っている人と共有したくて、このブログを書いています。

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波多野智章、波乱万丈の66年

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