バスケ部は鬼コーチ

中学バスケ部の鬼コーチ 中学時代

バスケ部のコーチは鬼だった

私はこの中学校の伝統あるバスケ部に入部することになってしまいました。決して入部したくてこのバスケ部を選んだ訳ではありません。
入部を希望していた野球部は、合併に伴ってグラウンドが使えないといことで廃部になってしまいました。

そこへバスケ部に入部していた友人の平野君の企みで、バスケ部に入部させられてしまいました。バスケをやるには好都合の身長だけで、まるっきりバスケには興味がなかったのが事実です。

もともと球技が好きだったので、とりあえず「ちょっとやってみるか」という安易な気持ちだったのは否定できませんでした。
”ボールをあの籠に入れるだけのスポーツだし、俺にもできる”だろうとナメていました。しかし実際にはとてつもなくしんどい運動量だったのです。あの狭いコートを右へ左へとダッシュで走るのは、死ぬほどしんどかった。
しかもバスケの経験などないし、私以外は経験者。このハンディは縮めることはできませんでした。私を含め平野君以外は全員先輩。
体力的には随分差がありました。もちろんバスケのテクニックは先輩たちには太刀打ちできませんでした。

このバスケ部を率いるのが、誰もが怖がる村松先生。
体が大きく短髪でメガネをかけていました。メガネをかけている時は優しそうに見えたんですが、メガネを外すとそれはもう恐ろしい顔に変身してしまいます。

部活はほぼ一年中休みがありませんでした。私がこの中学校に通っていた当時は、体育館もなくグラウンドの隅っこに男女のコートが一面ずつありました。夏はコートが見えなくなるまでやり続けました。
練習の最後には30本のフリースローが定番で、続けて入るまで終わることができませんでした。できなとコートを30往復ダッシュが課せられました。

夏休みになると村松先生は、上半身裸で指導します。裸になると両腕に深い傷がありました。先輩たちは「あの傷は総番時代にヤクザと喧嘩したときにできたものだ」と言っていました。それが事実なのか語り継がれてきた噂なのかは、誰も知りませんでした。それはどうあれ、あの切り傷は中学生の私たちには恐怖心を与えるには十分過ぎました。

夏休みのある日、事件はおこりました。
体調がすぐれず部活に行かず、自宅で寝ていました。部活を休むことは事前に電話で知らせていました。朝から少し熱があり、食事も摂ってなかったと思います。朝10時を少し回ったときのことです。
玄関先からピポーンと呼び鈴が鳴りました。

母親は、「はーい、どちら様ですか?」と言いながら玄関先へ。目の前に見知らぬ男性が立ってていたと言い、「どちら様でしょうか?」、、、「波多野君はいますか?」、、、「いま、ちょっと横になっていますが」、、、再び「どちら様ですか?」という母親の声が聞こえて来ました。
すると、「おい、波多野いるのか?!」、、、、

この声はもしかして村松先生?
「波多野、迎えに来たぞ!早く起きてこい!」
そうです。バスケのコーチの村松先生が家に来たのです。
部活を休んで寝ていたのに、村松先生は家にやって来たのです。

私は練習用のタンクトップと短パンを急いで履き、玄関で待ってる村松先生のところへ行きました。

コーチが乗ってきたスーパーカブ

村松先生は、「おい!行くぞ」と言って、乗ってきたスーパーカブの後ろに私を乗せて、東部中学校まで向かったのです。
想像つきますか?私たちのコーチがどれほど恐ろしい人か。

この日以来、村松先生が怖くてたまりませんでした。
日増しに練習は厳しくなり、毎日何キロも走らされました。
以来、バスケットボールが嫌いになったのは、言うまでもありません。

私たちが三年になったとき、11年連続県大会に出場した記録が途絶えました。この歳を最後に村松先生は、浜松市内の別の中学校へ移りました。できれば私たちが現役のときに、違う学校へ行って欲しかったと思っていたのは、私だけではないはずです。

 

中学時代
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私は有限会社アイベックスという映像制作会社を設立。そしてバリ島に進出してウェディングのプロディースの会社、PT.BALI IBEXを設立。大手旅行代理店と提携して自社チャペルにてウェディングをプロデュースしていました。しかし、夢半ばで病に倒れ、すべてを失ってしまいました。おまけにその病により下半身不随に。現在もリハビリを続け、復活を目標に生きています。私と同じ病に倒れ、現在も頑張っている人と共有したくて、このブログを書いています。

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波多野智章、波乱万丈の66年

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