初めての下宿生活

フォークソング全盛期 大学時代

下宿生活のはじまり

私の大学生生活のはじまりです。
生まれてから浜松市を出たことのない私にとって、大阪での大学生生活は、まるっきりイメージがつきませんでした。

2トン車に私の荷物を積み込み、兄と二人で見知らぬ大阪の下宿を目指しました。大阪に入って高速に乗ったのですが、その車間距離のなさにまず衝撃を受けました。これが都会の走り方なのか。

自宅からどれだけかかったのかは覚えていません。
下宿は南河内郡太子町太子にありました。下宿の名は『太子荘』。
南河内は大阪の南に位置し、大阪でもコテコテの河内弁を放ち、想像以上のインパクトがありました。なんやわれー!

太子荘というなの下宿

実家で使っていたシングルベッドを下宿に持ち込みました。
下宿の部屋番号は41号。広さは4畳足らずでした。電気を点けなければ昼間でも部屋は暗く、空気は淀み不健康そうな小部屋でした。人生初の一人の生活がここから始まりました。

下宿の大家さんは、同じ下宿の敷地内に住んでいました。小金持ち風の小太りのご主人と、愛想のいい奥さんでした。
下宿の管理人は夫婦と女の子が一人。下宿は三棟あり、アパートのようでした。管理人の家族は、お風呂場がある棟に住んでいました。この部屋も同様に狭く、二部屋をぶち抜いたような部屋に住み込みでいました。しばらくの間、下宿で朝食と夕食を食べることにしたのですが、とても10代の青年が食べるような食事ではありませんでした。栄養バランスなどまるなし。ベジタリアンかと思わせるように、路地物野菜が殆ど。あとは小魚を焼いたもの。とても二食など耐えられるものではありませんでした。あぁ、これが夢だった下宿生活なのかと、天を仰ぎたくなる思いでした。

ベルボトムが大流行

世の中はフォークソングブーム真っただ中。
吉田拓郎や井上陽水、泉谷しげる、高田渡など、誰もがフォークの神と崇められていた時代。右を向いても左を見ても、ベルボトムのジーンズを穿いた男女ばかり。男性の長髪(今でいうロン毛)が目立っていました。私は19歳からすでに髭を生やし、髪は長く、すでにヒッピーのような容姿でした。そんな時代だったのです。ちなみに吉田拓郎命でした。その後、下宿では”タクロー”と呼ばれていました。

下宿から学校まで歩いて20分程度。途中、田んぼのあぜ道を通って近道をすると頻繁にヘビと遭遇。そして茂みを見ると『マムシに注意』という立て看板が立っていました。大学は自然豊かなド田舎にありました。授業に出席しているクラスメイトの名前と顔を覚えるころには、話し相手もできていました。

しかし、大学での友人と高校のときの友人とでは、どこか違っていました。『親友』というには程遠く、みんな様々な方向を向いている感じ。4年間の大学生活で、友人と呼べる友達は一人もいませんでした。その分、下宿の住人とのつながりは濃かったんです。

下宿内ではマージャンと言う魔の繋がりが形成され、私の足を引っ張るようになっていったのです。これが貧困生活の始まり。なんのためのアルバイトだったのか?稼いだバイト代はマージャンの借金返済へと充てられていったのです。

下宿には広島、島根、神戸、京都、和歌山、埼玉、栃木、東京、福岡など、日本中がら集まっていました。みな個性的でした。これが下宿生活なんだと再確認しました。あらゆる言葉が飛び交い、吉本を見ているようでした。

大学時代
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私は有限会社アイベックスという映像制作会社を設立。そしてバリ島に進出してウェディングのプロディースの会社、PT.BALI IBEXを設立。大手旅行代理店と提携して自社チャペルにてウェディングをプロデュースしていました。しかし、夢半ばで病に倒れ、すべてを失ってしまいました。おまけにその病により下半身不随に。現在もリハビリを続け、復活を目標に生きています。私と同じ病に倒れ、現在も頑張っている人と共有したくて、このブログを書いています。

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波多野智章、波乱万丈の66年

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