これでいいのか大学生活

夢に描いていた大学生活が 大学時代

夢に描いていた大学生活が

親父の許しを得てやっと実現した大学生活。
元より大阪芸術大学に進学したいと思っていた私と父親との間には、高い壁がありました。時間をかけ、兄のヘルプもあり、やっと入学できたこの大学。

私の大学生活は、学校にほど近い『太子荘』という下宿からはじまりました。”下宿”といっても芸大生が60名ほど集まったアパートのような下宿でした。もちろん、男子学生のみでした。

私がこの大学に入学する条件として、学費は自分でねん出することでした。結果的にこの条件が最後まで私の大学生活を苦しめました。大学入学金は親が払ってくれましたが、それ以外はバイトでお金をねん出するしか方法がありませんでした。

そのために一回生から四回生に至るまで、数えきれないバイトをしました。勉強をするために入学したはずの芸大。しかしバイトをするだけの大学生活でした。大学生が授業終了後バイトできるのは、たかだか知れたものでした。

バイトで稼げるお金

バイトは毎日2つ以上掛け持ちしていました。
基本は晩飯が出るバイトを選ぶこと。安いダックス(ホンダ50cc)を手に入れ、バイトにはこのバイクで行っていました。バイクを使わなければ、バイト先から下宿に戻ることができませんでした。下宿は驚くほどの田舎。電車もバスもバイトが終わる時間には走っていません。殆ど帰宅は毎晩夜中の12時を回っていました。

下宿に戻り、湯舟に半分ぐらい残っている汚れたお風呂に浸かり、ぬるくなったお湯で汗を流してあとは寝るだけの毎日でした。

毎日複数のバイトをこなし、毎日授業に出るのはしんどかった。当然予習などできるはずもありませんでした。実習があっても予習はできませんでした。友達に頼んで代返してもらったこともあります。ノートを借りたこともしばしば。バイトをたくさんやることで、授業への影響はかなりありました。

こんな生活を繰り返していると、卒業できなくなってしまうのではないかと不安にあることよくありました。しかし、この生活を辞めてしまえば、大学生活が送れなくなるという危機感もあり、やむなくバイトを続けました。そしてバイトの数はどんどんと増えて行ったのです。そんな時、バイクが盗難にあってしまい、バイトへ行くための足が奪われてしまったことも。

しばらくの間、バイト先の近くに住んでいたクラスメイトのアパートに厄介になったこともありました。きっと迷惑かけたことでしょう。
当時、下宿にバイト斡旋業者が不定期にやってきました。
下宿の食堂の壁にたくさんのバイト案内がありました。梨の実に和紙を括り付けるバイト。道路の白線引き。家を建てる時の赤土をこねるバイト。喫茶店の厨房。ナイトクラブのバンド演奏。タンカーの甲板ペンキ塗り。スーパーのバックヤード。スーパーのラベル貼り。パチンコの出玉の調整。店員。一番記憶に残っているのがおばちゃんとデート。これはおばちゃんが気に入ってくれるとチップが出ます。

こんなものではありません。このページに体験したバイトがビッシリと埋め尽くされると思います。とにかく4年間ほとんど毎日バイト、バイトの毎日でした。

何度も考えました。
やっぱり学生の分在で学費、生活費をねん出するのは無理だってこと。後悔したこともたびたびありました。4年間で1度だけ浜松の実家に帰省しました。もう一回は親父の訃報だったんです。

大学時代
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管理人
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私は有限会社アイベックスという映像制作会社を設立。そしてバリ島に進出してウェディングのプロディースの会社、PT.BALI IBEXを設立。大手旅行代理店と提携して自社チャペルにてウェディングをプロデュースしていました。しかし、夢半ばで病に倒れ、すべてを失ってしまいました。おまけにその病により下半身不随に。現在もリハビリを続け、復活を目標に生きています。私と同じ病に倒れ、現在も頑張っている人と共有したくて、このブログを書いています。

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波多野智章、波乱万丈の66年

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