ピカピカの一年生

私の小学生の時代 小学時代

ピカピカの一年生

1961年、私は浜松市立相生小学校に入学します。
自宅から子供の足で30分ぐらいの通学時間だったと記憶しています。
行く道中、寄り道しながらたんぼの稲刈りのあとを足で踏みつけて
学校まで行ったのを覚えています。

当時の浜松市は、戦争があったのかも分からないほど、きれいに
復興していました。ただ、年配の方とお話をすると戦時中の
悲惨な話を耳にすることがありました。
私は戦争をしらない世代なので、本当に幸せ者です。

唯一、私の生まれた家の二階の南側の壁が、戦時中に遠州灘
(太平洋)からアメリカ軍の艦砲射撃によって撃った砲弾の
破片が当たり、大きな穴が開いていました。
その穴が戦争の爪痕だったらしく、我が家の戦時中の出来事
だったようです。

私が小学校の低学年の頃、よく父親が戦争の話をしてくれました。
朝、父親の布団にもぐり込むとまだ幼い私に、ビルマでの戦争の
話をしてくれました。

食べるものがなく、蛙やヘビを捕まえ食べたって言っていまし
たが、それがどれほどの劣悪な状況だったのか、まるで知る
予知はありませんでした。

そんな父親が私に戦争の話していた中で、今でも記憶に残って
いるのは、「日本は戦争に負けて良かったんだよ」と、吐き捨
てるような言葉でした。

「もしも日本が戦争に勝っていたら、いまも戦争を続けていた
だろう。」と何度も繰り返していました。

日本が戦争に負けたことで、今の平和な日本があると言って
いました。戦争に行ったからそう言ったんでしょう。

60年ほど前の浜松は平和で、隣近所の付き合いは濃く、助け
合っていたのだと思います。
当時の家の土間は暗く、流しと洗面は一緒でトイレと台所も
隣り合っていました。もちろんトイレは汲み取り式で、定期的
に市のバキュームカーが来ていました。

隣りの家の声も良く聞こえていました。ということは、こちらの
声もダダもれだったに違いありません。プライバシーなんて
ものはなかった時代だったんでしょう。

台所にはガスコンロなどはなく、薪でご飯を炊いていました。
学校の休みの時は、よく兄と薪を割っていたことを覚えています。

なぜか床下があって、飼っていた犬はその床下が住み家に
なっていました。

すりガラスの引き戸の玄関を開けると、自転車一台がやっと
置けるスペースがあり、一段上がると六畳ほどの居間と四畳ほど
の今でいうダイニングスペースがあり、白黒テレビと丸いちゃぶ台
がありました。ちゃぶ台の周りに家族が丸くなってご飯を食べ、
テレビを観ていました。それはそれは猫の額ほどの広さでした。

小さな家でしたが二階がありました。
二階は六畳がひとつあり、物置を兼ね七つ年上の兄が一人で
占有していました。六歳上の姉が中学生になるころに、一階の
土間のちょうど上辺りに小さな部屋を作り、そこが姉の部屋に
なりました。いわゆる自分の部屋というやつです。
部屋といっても鳥小屋程度の小さな部屋でしたが。

姉の部屋の屋根はトタンだったので、夏はサウナのように暑く、
冬は隙間風が入って寒く、雨の日は雨音で周囲の音はまるで
聞こえませんでした。それでも当時としては、自分専用の部屋が
あったのは、父親が無理をしていた思います。

当時は殆どの家がこんな感じで生活していました。
どの家も同じような生活環境だったのではないでしょうか。
きっと両親は我慢の生活だったんでしょう。子供の私には
理解しようがありませんでした。父親には威厳があり、とても
怖い存在でした。戦争帰りの父親の鉄拳は、嫌というほど
味わって来ました。

それは小学校に入っても同じような環境でした。
今でいうパワハラなんて当たり前の時代。先生は偉い人で
怖い人だった時代です。何度、担任の先生からビンタを
くらった(頂いた)ことか。

小学生のときは、たくさんの友だちができました。
クラスの中に一人だけお金持ちらしき友だちがいました。

私の小学生時代、殆どの友だちは兄弟のお古を着ていました。
当時学校内は上靴というものを履いて過ごしました。

毎日登校すると履いてきた靴を靴箱に入れ、上靴に履き替え
ました。その履き替える時が一番緊張したものです。

履いてきた靴を脱ぐと、継ぎはぎだらけの靴下がバレてしまう
からでした。小学低学年の私は、この瞬間が嫌いでした。
私が履いている靴下はすべて兄のお古で、全部継ぎはぎだらけ
でした。

母親はいつも言いました。
「穴が開いてるんじゃないから、どこが恥ずかしいの?!」
と私を言い含めました。確かにその通りなんだけど、小学生の
私は、継ぎはぎの靴下は恥ずかしくてたまりませんでした。

そんな環境の中、一人だけいつも真新しい服を着ていた
友だちがいました。誰も履いていなかった”ハイソックス”を
自慢げに履いていました。当時では殆ど目にすることのなかった
カーディガンを着ていました。

もちろん、その頃”カーディガン”なんて知る余地もありません。
その友達は間違いなくお金持ちの坊ちゃんに違いないと疑い
ませんでした。何がきっかけかは忘れましたが、その友達の
家に遊びに行くことがありました。

その友達の家は新品のワイシャツを売るお店をやっていました。
お母さんは綺麗にお化粧をしていました。随分と私の母親とは
違っていたように思います。
きっとお店が繁盛していたんでしょう。我が家とは何かが
違って見えました。でもそのことを母親には話しませんでした。

お金はなくても家族全員仲良しだった我が家。
時々、父親の雷は鳴りましたが、それはそれでした。
だって父親は偉くて怖い時代でしたから。

とにかく父親が絶対的な権力を持ち、それに逆らうことの
できない時代でした。(我が家は)

でもどうやって調達してくれたのかは分かりませんが
小学校の入学式には、真新しい服を用意してくれていました。
今の時代、当たり前ですが、当時はどの家もお金に余裕など
なかったはず。それが親なんでしょう。

この歳になって判ることがたくさんあります。
両親のおかげで”ピカピカの一年生”になることができました。

 

小学時代
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管理人
hatanotomoaki

私は有限会社アイベックスという映像制作会社を設立。そしてバリ島に進出してウェディングのプロディースの会社、PT.BALI IBEXを設立。大手旅行代理店と提携して自社チャペルにてウェディングをプロデュースしていました。しかし、夢半ばで病に倒れ、すべてを失ってしまいました。おまけにその病により下半身不随に。現在もリハビリを続け、復活を目標に生きています。私と同じ病に倒れ、現在も頑張っている人と共有したくて、このブログを書いています。

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波多野智章、波乱万丈の66年

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