人生で初めての試練

親父が危篤 大学時代

人生で初めての試練

大学生活も終盤に差し掛かったころのことです。
四回生になっても相変わらず忙しい学生生活を送っていました。毎日クタクタになるほどバイトに追われていました。本当によくも続くものだと、自分でも自分を褒めてやりたいほどでした。

私が高校一年のとき、私の親父は突然倒れ、救急車で運ばれたことがありました。私と親父は、私の夏休みになると二人で鮎釣りに出かけていました。もちろん鮎釣りは親父に教えてもらいました。

二人はこの鮎釣りが好きで、唯一親子で楽しめる時間でした。
朝方3時ごろ車で遠い釣り場まで走りました。そこは天竜川の上流で浦川という小さな町。到着すると細い県道の左側に車を停め、川が流れる釣り場まで10メートルほど降りて、いつものポイントへ向かいました。親子並んで竿を出して釣りをするのは大好きでした。

釣りをしている間は、殆ど会話がありませんでしたが、「親父と釣りをしてる」という満足感がありました。普段まったく会話のない親父と私でしたが、並んで竿を出しているだけで私は十分でした。

そろそろ昼のおにぎりを食べる時間。親父に「そろそろお弁当食べる?」と声を掛けると、親父は竿を挙げてこちらに近寄って来ました。おふくろが作ってくれたおにぎりを二人で食べ、水筒に入れたお茶を飲みました。おにぎりには決まって梅干し。

お腹も満たされると時間を惜しむように、二人は自分のポイントへ戻りました。それは昼食から1時間ほど経ってからのことでした。

親父が突然”うーうぅ”と、うなり声を挙げて倒れました。顔色がみるみるうちに青白く変わりました。私はすぐに親父に駆け寄り、声を掛けましたが応答がありません。

当時は携帯電話などない時代。私は親父をそこに残し、道路まで上がり道沿いにあった民家まで走りました。今思えばかなりパニくっていたと思います。正直あまり覚えていないんです。とにかく一刻も早く救急車を呼ぶこと。どんな家に飛び込んだのかも、どうやって救急車を呼んだのかも覚えていません。

親父が倒れたのはかなりの山奥でした。結局、パトカーに乗せられて二俣という町まで下りてきて、そこでパトカーから救急車に乗り換えて浜松の「浜松日赤病院」にたどり着きました。しかし、病院に到着したまでの流れは殆ど記憶にありません。

病院に到着した時には、おふくろも兄も姉も揃っていました。
親父はすぐにICUに入れられ、1時間ほどで医師に「今から手術を行います。」と告げられました。おふくろと兄は、同意書を書くために別室に入っていったのを覚えています。
この段階で親父はどうして手術をするのか理解できていませんでした。少なくとも私と姉は。

気が付くと兄の顔が緊張していました。「きっと重大なことが起こったに違いない」と悟りました。

手術中のおやじ

緊急手術は7時間にも渡りました。その時間を考えただけでも重い手術だったことが想像つきました。待合室で誰もが口を閉ざしていました。待合室で手術を待っている時間の長かったこと。そして心臓が張り裂けそうだったことは今でも忘れません。

「手術中」の赤いライトが消え、手術室から出てきた親父はそのまま集中治療室に移動しました。それからどれくらいの時間が過ぎたのかは忘れなした。長い時間その部屋から出てくることはありませんでした。看護師さんが出てきて、「まだお時間がかかると思いますので、今日はお帰り下さい。」と告げ、再び治療室に戻ってしまいました。

私たちはいったん帰宅し、親父の入院に必要なものを取りに帰りました。少しだけ腹に入れなければと、何か食べたか飲んだかしたんだと思いますが、正直覚えていません。

また直ぐに病院に戻りました。この日から親父と私たち家族は、長い長い闘いが始まりました。このとき私と姉だけが、親父の生き延びる時間を知らずにいたのです。この日を境に私たち家族は、親父の病気に翻弄されることになったのです。

大学時代
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私は有限会社アイベックスという映像制作会社を設立。そしてバリ島に進出してウェディングのプロディースの会社、PT.BALI IBEXを設立。大手旅行代理店と提携して自社チャペルにてウェディングをプロデュースしていました。しかし、夢半ばで病に倒れ、すべてを失ってしまいました。おまけにその病により下半身不随に。現在もリハビリを続け、復活を目標に生きています。私と同じ病に倒れ、現在も頑張っている人と共有したくて、このブログを書いています。

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波多野智章、波乱万丈の66年

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